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今読むべき『知らなかった、ぼくらの戦争』

  • 執筆者の写真: Cegua
    Cegua
  • 5 日前
  • 読了時間: 8分

 こんにちは、資料室司書のセグアです。戦後80年の節目の年ですね。

 

 今日は蔵書の中から、アーサー・ビナードさんの『知らなかった、ぼくらの戦争』(小学館, 2017)を紹介します。


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 アーサーさんは1967年生まれ、日本で考えれば「戦後生まれ」、戦後とはもちろん、第二次世界大戦以降ですね。しかし、アーサーさんの故郷であるアメリカは、当時ベトナム戦争の真っ只中。ということは「戦中生まれ」だというのです。1990年に来日して初めて「戦後」という言葉に出会い、自分が「戦後のない国」に生まれ育ったと気づいた、とも書いています。

 わたしはアーサーさんより少し年下の、もちろん「戦後生まれ」。小学生では長崎、中学生で広島へ修学旅行に行き、どちらの原爆資料館も見学しました。

 また『太陽の子』(灰谷健次郎)、『ガラスのうさぎ』(高田敏子)、『ふたりのイーダ』(松谷みよ子)などをいただいて読み、『アンネの日記』は文庫を自分で買って読み、大人になってからも(もちろん全てではないですが)折に触れて読み続けていたので、“あの戦争”についてはまあまあ知っているつもりでいました。

 しかし数年前に読んだ、文化放送のラジオ番組「アーサー・ビナード『探しています』」(2015.4-2016.3)を元にしたこの本には、まさに今まで知らなかったこと、思いもよらなかったことが多数書いてあり…自分の不勉強さに打ちのめされました。


 うっすら知っていた「ウサギの島」、大久野島で何が行われていたのか、その実際をちゃんと知ったのは岡田黎子さんの「まだあげ初めし前髪の乙女たちは毒ガス島で働いていた」ではなかったかと思います。

「わたしたちはなんも知らないまま、毒ガスに携わらされ、運ばされていたんです」(p.67)

 ゼロ戦パイロットだった原田要さんの「空母は何隻いたのか?」で、真珠湾攻撃の、そしてミッドウェー海戦の実際と、プロパガンダ(!)について知り、金子力さんの「津々浦々に投下されていた『原爆』」で、模擬原爆「パンプキン」のことを知りました。事実そのものにはもちろん、巧妙になされた隠蔽と、騙されたまま知ろうともしなかった自分に驚き、情けなくなりました。


 また満州でのことは、引き上げてきた方から直接お話を聞く機会もありましたが、択捉島で行われたこと、アメリカでの日系人への処遇などへはまったく思い至らず、鳴海冨美子さんの「生まれた集落の名前は『鯨場』」、リッチ日高さんの「あの日からぴたりと白人客は来なくなった」、兵坂米子さんの「ミシガンのセロリ畑で聞いた『無条件降伏』」を、圧倒されながら読みました。


 駆逐艦「雪風」のことも知らないでいました。西崎信夫さん(「十五歳で日本海軍特別少年兵」)は、戦後も「復員輸送船」となった雪風に乗り続け、水木しげるさんを含む一万三千人以上を日本に復員させたのだそうです。この夏、映画「雪風 YUKIKAZE」が公開されていることを、つい先ほど知りました。


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 今回改めて読み返して、特に感じたのが教育のこと、そして<軍隊は市民を守らない>ということでした。

 この本の冒頭に登場するのはアーサーさんの義理のお母さま、栗原澪子さん。「およそ戦闘が似合わない、繊細で優しい」(p.9)1932年生まれの澪子さんは、当時は「決戦日記」を書き続けていた軍国少女でした。そのお母さま(アーサーさんの義理のおばあさま)は、大正デモクラシーの時期に勉強した方で、「『ニッポン勝った!バンザイ!』っていうのに非常に懐疑的な人」(p.14)だったそう。そんなお母さまに澪子さんはこんな言葉をぶつけていたそうです。当時の学校教育を素直に真面目に受けているとこうなってしまうのでしょう。


母にきっぱりと「日本は勝つはずがない」っていわれると、ムキになって食ってかかったの。「お母さんのような非国民がいるから日本は勝てないんだ!」って(p.15)

 「国家の教育の影響力が家庭のそれより大きいことにも、ぞっとしながらもうなずかされる」(p.17)とアーサーさんは書いています。

 

 また、沖縄県知事でもあった大田昌秀さんの「農民の着物に着替えて出て行った参謀たち」で語られることには、もっとぞっとさせられます。


 当時の沖縄は非常に特殊な環境にあったと思うんです。本土なら、いくら民主主義や自由主義の本を読んではいけないといわれても、東京・神田の古本屋街などに行けば読めないことはなかった。ところが沖縄では、それがまったくできない。「危険な本は上陸させない」といって船の中で処分してしまうので、完全に締め出せたんです。学校現場でも、生徒を試験管に入れて純粋培養するように「皇民化教育」が行われ、「天皇のために命を捧げることが人間としていちばん正しい生き方だ」と教えられました。(p.149)

 国にとって都合の良い方へ誘導し、都合の悪いことは隠して教えない<教育>によってできあがるのがどんな世界か、わたしたちは知っているはずです。

 

 対馬丸の生き残りである平良啓子さんの「『疎開』の名の下に『うっちゃられた』」では、こうはっきり語られています。

 国の命令で、対馬丸に乗った子どもたちが大勢死んだことを、政府としては伏せておきたかった。わたしたちは口止めをされました。さらに情報の拡散を防いで隠蔽するために、同じ島内の別の場所、古仁屋というところに移されました。(p.144)

 都合の悪いことを隠すどころか、口を塞ぐ行為。この暴力を<国>が躊躇なく行うのが、戦時下なのかもしれません。

 

 大田昌秀さんに再度ご登場いただきます。

 沖縄戦で心に刻んだ最大の教訓は「軍隊は民間人を守らない」ということです。非戦闘員の命を軍隊は守りません。これが、わたしが身をもって体験した沖縄戦です。(p.154)

 あちこちで目にしたことがある「軍隊は市民(民間人)を守らない」。大田さんの言葉は、ことのほか重く響きます。そして、それなら軍隊が守っているのは、いったい何なのでしょうか。

 

 原田要さんが、軍医に軽症な自分よりも先に苦しんでいる人を診てやってくれと言ったところ、軍医からはこんな言葉が返ってきます。

「きみ、これが戦争なんだ。ちゃんと使える人間を先に診て治療する。重傷を負ってもう使えなくなった者は、いちばん後回しだ。これが戦争の最前線の決まり」(p.27)

兵士は結局、機関銃や大砲と同じ、使えなくなれば捨てられる、と原田さんは続けています。「戦争で幸せになれる人はひとりとしていない」とも。


 生後2年で満州の奉天に渡ったちばてつやさんは、終戦時の混乱を6歳の目でしっかり見ていました。

あるとき、奉天の町から日本の兵隊が急に姿を消しました。春ごろでしたね。わたしたちは、要するに、捨てられたんです。日本からも、日本軍からも。(p.117)

 

 択捉島で、優しかったロシア兵が豹変するのを目の当たりにした鳴海冨美子さんはこう言います。

わたしたちがいえるのは、もう「戦争がいちばんいけない」ってことじゃないですか。択捉の島民たちは、戦争のことなんて知らなかったと思いますよ。それなのに突然戦争がやって来て、最後はソ連軍に島から強制的に追い出されて、すべてを失ってしまった。(p.58)

 

 この一冊を読み終えて、「戦争がいちばんいけない」という言葉に共感しない人はいないのではないかと思います。しかしそれは、たった23人の証言の結果、またアーサーさんの巧みな語り・編集でそう思わされてしまうだけなのか…?

 

 一応疑ってみましたが、いやいや、そうではないでしょう。


 「お花畑」と言われようと、戦争はしてはいけないことだと、やはりわたしは思うのです。何もいいことはない。どんなに科学技術が進もうと、人は食べなくては生きてはいけない。戦争はその基盤を吹き飛ばす。あるいは直接、人を殺す。いちばんいけないことでなくて、なんでしょうか。


 第二次世界大戦終結後のほんの二十数年後に自分が生まれたと気づいた時、それだけしか経っていないのか、とびっくりしたことを覚えています。でも、もう「戦争」なんてことにはならないだろう、と子どものわたしは安心しきっていました。だって、大人たちがこんなに「もう繰り返さない」「戦争はしない」と言っている。そう規定した憲法をもつ国である。

 しかしながら、戦争終結からたった80年後の最近のこのきな臭さ、尋常ではありません。

 「非国民」「核武装は安上がり」などと発言した候補が当選する国になってしまった。

 戦時下を証言してくださる方々がどんどん鬼籍に入ると同時に、「そんなことはなかった」と言い出す人が溢れる時代になってしまった。

 様々なことが飛躍的に便利になった反面、フェイクが溢れ、あるいはエコーチェンバーで、判断を誤りそうな事態が多くなってきてしまった。

 今までに起こったことを知り、その上でひとりひとりがしっかりと考え、行動していくことがますます大事な時代になったと思います。

 

 先ほど、「たった23人」と書きましたが、さまざまな立場の23人のお話は多岐に渡り、またおひとりおひとり大変重い内容です。それをアーサーさんがコンパクトにまとめ、解説してくれています。装丁はポップですがおそろしいくらいに読み応えのある本です。

 また、冒頭にアーサーさんとのツーショットが必ず添えられていて、どなたもとてもいい表情で写っていらっしゃる。アーサーさんの力をひしひしと感じます。さらに言えば、実は23人どころではない、その時代を生きたすべてのひとびとに、それぞれの<戦争>がある。今知ることができるのはほんの一部で、記録されないまま失われたものが大半ではないでしょうか。そのことにも思いを致しながら読んでいかなくてはならないとも思うのです。

 

 戦後70年にアーサーさんが「戦争体験を聞こうと決め込んで」(p.255)から10年の今、ますます読まれるべき本だと思います。引用しはじめたら膨大な量になるため断念した高畑勲さん

ほか、ここには挙げられなかった方々の言葉にも、是非直接触れてください。


 もちろん、弊所資料室にあります。是非どこかで一度手に取ってみてください。

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