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執筆者の写真コスタリカ社会科学研究所

【資料室より】クリスマスに読みたい一冊

更新日:2024年12月26日

 昨日はクリスマスイブでしたね。弊所資料室の司書がこの日にまつわる本を紹介します。お時間あるときにお目通しいただければ幸いです。

 なお、弊所所蔵のこの本は、2004年にいただいたベアテさんのサイン入りです。ご覧になりたい方、是非ご来所下さい!

 

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■1945年のクリスマス:日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝/ベアテ・シロタ・ゴードン著 平岡磨紀子 構成/文 (柏書房、1995年刊)

 


 1945年12月24日、それは22歳のベアテがGHQの民間人要員の一人として日本に赴任した日だ。その後、彼女が日本国憲法の草案を書いたことは「私は男女平等を憲法に書いた」のビデオなどにより知っている方もいるだろう。

 

 ベアテの最初の職務は公職追放のリスト整備だった。しかし翌年2月4日、12日までのたった9日間で憲法草案を仕上げるよう命じられる。大日本帝国憲法とほとんど変わらない日本政府作成の憲法草案を修正するよりも、モデル案を示した方が効率的だと考えたGHQのトップシークレット指令だった。25人のメンバーが8つの委員会に分けられ、ベアテは人権に関する委員会に任命された。「全力を尽くして当たらねばならないという、強い使命感が、私の沸き立つような興奮を抑え、冷静にさせていた」(p.145)と記している。上司のロウスト中尉から、女性だから、女性の権利を書いたらどうかと言われて飛び上がらんばかりに喜んだベアテは、まず都内の図書館や大学をジープで駆け回ってアメリカ独立宣言、ワイマール憲法、ソビエトの憲法等様々な憲法に関する資料を集め、読み込み、草案を書いた。

 

  …各国の憲法を読みながら、日本の女性が幸せになるには、何が一番大事かを考えた。それは昨日からずっと考えていた疑問だった。赤ん坊を背負った女性、男性の後をうつむき加減に歩く女性、親の決めた相手と渋々お見合いをさせられる娘さんの姿が、次々と浮かんで消えた。子供が生まれないというだけで離婚される日本女性。家庭の中では夫の財布を握っているけれど、法律的には、財産権もない日本女性。「女子供」(おんなこども)とまとめて呼ばれ、子供と成人男子との中間の存在でしかない日本女性。これをなんとかしなければいけない。女性の権利をはっきり掲げなければならない。(p.153)

 

 しかし、ベアテが書いた条文は多くが削られてしまう。それは主に、憲法ではなく民法に書かれるべきだという理由からだった。

 

 激論の中で、私の書いた“女の権利“は、無残に、一つずつカットされていった。一つの条項が削られるたびに、不幸な日本女性がそれだけ増えるように感じた。痛みを伴った悔しさが、私の全身を締めつけ、それがいつしか涙に変わっていた。(p.185)

 

 ベアテが一度は記した、そして削除された<私生児は法的に差別を受けず>が憲法に書いてあったら、裁判をおこさずに済んだのに、という女性に後日出会い、「もっと泣いてでも抗議しねばるべきではなかったか」(p.309)という悔しさも記されている。

ベアテだけでなく、各委員会の面々が不眠不休に近い状態で考え、書き、議論の結果書き直し、また議論を重ねて仕上げた草案の「最終稿をマッカーサー元帥はただ一か所だけ修正してOKを下した」(p.207)。そして、それは日本国憲法として発布されたのだ。

 

 さて、ベアテはなぜほんの22歳にしてこのような仕事を成し遂げ得たのか。ベアテと、その両親の人生を知ると得心がいく。

 ベアテの父、レオ・シロタは1885年、キエフ(キーウ)生まれのユダヤ人、世界的に有名なピアニストだった。妻オーギュストは1893年生まれ、彼の共演者で同じくキエフ出身のユダヤ人、ヤシャ・ホレンシュタインの姉だった。コンサート会場で出会った時には既に子どもを持つ人妻だったが、1920年に全てを捨ててレオの求婚に応じた。1923年10月ウィーンで、二人の間にベアテは生まれた。

 山田耕筰の招きにより、レオは1929年に妻と幼いベアテを伴って半年間の演奏旅行のつもりで来日した。乃木坂近くの洋館から、ベアテは大森のドイツ学校、その後アメリカンスクールに通った。家には美代さんという敏腕のお手伝いさんがいて、様々な客人を招いてはオーギュスト仕込みの料理をふるまった。アメリカのミルズ・カレッジに留学する15歳まで、ベアテは日本で育ったのだ。また母の助言もあって、この時に「さして努力もしないでドイツ語、フランス語、英語、ラテン語、そして日本語をマスター」(p.94)していたのだった。

 その後世界恐慌があり、ナチスが台頭し、第二次世界大戦が勃発して、ベアテの両親は「第三国人強制疎開地」の軽井沢へ移住を余儀なくされる。演奏会どころかレッスンも禁止され、憲兵に監視され、食べるものにも事欠いた。米国に留学したベアテは父母との連絡、そして送金も途絶えたため、自活の道を選ぶほかなかった。両親の消息が得られるかもしれないという思惑もあり、語学力を生かして放送局などでアルバイトをし、終戦後は両親に会いたい一心で日本でのGHQの仕事を見つけ、<帰国>したのだった。

 

 軍国主義時代の日本で育った私は、心配だったのだ。日本民族の付和雷同的性格と、自分から決して意見を言いだそうとしない引っ込み思案的な性格、しかも過激なリーダーに魅力を感じる英雄待望的な一面は、昭和の誤った歴史を生み出した根源的なもののように思う。日本が本当に民主主義国家になれるのかという点で不安を持っていた。だからこそ、憲法に掲げておけば安心といった気持ちから、女性や子供の権利を饒舌に書いたのだった。 (p.193)

 

 日本人の特性を見事にとらえたベアテに震撼する(また、戦後80年が経とうとしている現在もほぼ変わっていないことにも震撼する)。彼女は恵まれた環境に生まれ、年齢の割に留学を含め様々な経験があり、また両親のバックアップにより語学を含めて教養を身につけていた。そして10年間育った日本の姿について、お手伝いさんの美代さんをはじめ日本女性の姿について知っていた。憲法に男女平等を書き込むのは、彼女としては当然のことだったともいえる。

 

 ベアテは憲法草案チームのなかのひとり、ゴードン氏と1948年に結婚した後、アメリカでふたりの子どもを育てながらアジアの文化をアメリカに紹介するプロデューサーとして活躍した。「アメリカとアジアを結ぶだけではなく、パフォーミング・アーツで全世界を結びたい」(p.300)というベアテとしてはその夢は未完に終わったかもしれない。しかし巻末に掲げられた「主な活動記録」を見ると、もう十分以上なのではないかという気がしてくる。

 万人にベアテのようにやりたいことがすべて可能な環境が整えられている訳ではない。しかし、誰もがユニークな存在であり、その「私」こそができることがきっとある。

 ベアテに、「それで、あなたにはなにができるの?」とページの向こうから問いかけられた気がした。


ーーー

【所長より】

 ベアテさんに直接お会いできる幸運を得たのは、もう20年も前になる。母校西南学院が招待し、講演された時のことだ。恰幅の良い体を揺らしながら流暢な日本語を操るベアテさんは、さしずめ肝っ玉母ちゃんといった具合で、破顔一笑という言葉が相応しい豪快な笑顔で私たちに性的同権の希望を直接示してくださった。

 日本国憲法が制定されて今年で77年。ベアテさんがそこに込めた魂は、21世紀も4分の1が過ぎようとしている現代でも変わらず根源的な重要性を保ったままである。ぜひみなさんに読んでいただきたい一冊。弊所資料室でお待ちしております。

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