top of page
執筆者の写真コスタリカ社会科学研究所

コスタリカの電化の歴史(1948年の革命前まで)

更新日:2021年5月7日


第一節:コスタリカにおける電化の黎明


 コスタリカ初の営業用発電所は、1884年、Barrio Aranjuezに作られた。50kWの発電能力を持つ水力発電所だ。これにより、サンホセ市街地の一部に電気が供給されるようになり、コスタリカは中米初の電力供給国となった。のちに3基の発電機が増設され、供給能力は500kWにまで上がった。

 1900年、The Costa Rica Light and Tractionが設立された。この会社は路面電車を運営したので、別名Compañía del Tranvía (路面電車会社)とも言われた。

1911年にはCompañía Nacional de Electricidad(CNE)が設立され、Belénに発電所を建設して翌年操業を開始した。

 この年、当時の国内総電力供給容量は3,500kwに達し、そのうち500kWをThe Costa Rica Light and Tractionが、2500kWをCNEが発電していた。1922年には、この2社の発電容量は1400kW増え、さらにはCompañía Nacional Hidroeléctrica S.A.という会社もできた。これは文字通り、Electrionaという水力発電所を擁して2720kWの発電容量を誇った。

 1928年、これら3つの会社がThe Electric Bond and Share Company(ゼネラル・エレクトリック= GE系列、以下EBS)の出資のもとに、American Foreign Power Company Inc.によって買収された。それらが最終的にひとつの会社になった経緯は、第三節で説明する。


第二節:第一次大戦後における米国の対外経済戦略のもとで


 当時米国は、第一次大戦を経て空前の好景気に沸いていた。経常黒字増が続き、国内でダブついたドルは積極的な外国インフラに対する投資の原資となった。コスタリカの電力事業に参入したのも、その一環である。特にその最盛期こそ、1928年〜29年であった。

 1928年6月から1929年9月にかけて、電力持株会社の株価は170%も上昇した。中でも活発な外国直接投資を行っていたのがEBSであり、世界の電力市場の過半をコントロールしていたとも言われている。

 その戦略とは、一連の持ち株会社を設立し、GE社が保有していた普通株式を受け入れることで、多数の多様な事業会社を支配下に置き、地域の事業会社を投資家の目に留まるような規模の単一の事業会社に統合し(コスト削減のための相互接続や合理化が必要になるかもしれない)、これらの会社に社債、債券、優先株式を販売して資金を調達し、十分な量の普通株式を保有することで実質的な支配権を維持する、というものであった。

 EBSは、米国最大の対外電力施設投資会社であり、米国内で培った電力供給システムを海外に売るため、海外における電力会社に投資する戦略を採った。すでに第一次対戦中には、パナマの電力施設購入可能性について米国政府にアプローチしていたという。その結果、1917年にパナマシティとコロン市の電力会社を買収した。

 これは、それまでヨーロッパが中心となっていたラテンアメリカのインフラ市場を米国資本がかっさらい、米国内の雇用を促進するモデルケースとなった。外交的にも、ラテンアメリカのインフラを米国資本が担うことは、米国―ラテンアメリカ諸国の関係良化に資すると考えられた。

 1919年には、グアテマラ政府がドイツ人から接収した電力施設の獲得について国務省はEBS社にコンタクトを取り、翌20年には買収している。同じく1920年、ブラジル・サンタカタリーナ州政府と契約してEBS社はInternational General Electric社とともに電車と水力発電所を建設し、これがブラジル向けの最初の投資となった。1922年にはキューバ・サンティアゴの電力施設も獲得し、これがCuban Electric Co.の幕開けであった。これはのちにハバナの施設も獲得し、のちにAmerican & Foreign Power Co.傘下最大の会社に成長する。1923年までに、EBS社はパナマ、グアテマラ、キューバに合計1700万ドル投資した。

 1924年、American & Foreign Power Company(以下AFP)がEBSによってつくられた。これは、外国電力会社をさらに買収していくための持株会社である。そこから6年間で、AFP社は急速に膨張し、その間の総資産は当時の額で10億ドル(1996年の価値でいうと76億ドル)近くに達したという。その流れの中で、エクアドル、チリ、アルゼンチン、メキシコなどとともに、コスタリカにも進出した。それが1928年というわけだ。

(”The Rise and Fall of The American & Foreign Power Company: A Lesson from the Past?”, The Electricity Journal January/February 1997, William J Housman and John L. Neufeld)


第三節:EBSのコスタリカにおける経営展開と電力事業の統合


 1928年、Bond and Share Company(American Foreign Power Co. Inc.系列)が国中のすべての発電施設の権利を取得した。同年、電力の国営化運動(La Liga Cívica)により、水力発電を国有化する法律ができた(ley77)。これにより、Servicio Nacional de Electiridadが水力発電事業を担うことになるはずだったのだが、折しもニューヨークの株価暴落に端を発する世界恐慌により、その計画は頓挫する。

 その計画が日の目を見るのは、1941年にCompañía Nacional de Fuerza y Luz S. A.(CNFL)が設立され、さらには1948年の革命の成果のひとつとして電力事業をICEに統合させるまで待たねばならなかった。それまでは、民間の、特に外国の資本による電源開発が大半を占めた。

 これはコスタリカの消費者にとって利益のあることであった。というのは、電力事業に関して広い経験と豊富な経済的資源を有し、ただちに発電や送電、配電に関する既存の施設の改良事業に取り掛かって、第一節の最後に述べた3社の競合による重複を解消したからである。

 それにも関わらず、増え続ける需要に対応するまでには至らず、供給不足は続いた。

 1941年、AFPは3社合併を申請した。それは、その時まで否認されていたことだった。今や合併は市民に対する義務だと主張し、ついにそれが通った。Compañía Nacional de Fuerza y Luz(CNFL)が設立されたのはその年である。それにより、主に首都圏において電力供給のほぼ独占市場が形成された。CNFLは、現在でも首都圏に電力を供給している。

 CNFLがコスタリカの電力供給網拡大に多大な尽力をしたことは間違いない。CNFL自身が1949年に発表した資料によると、1930年から1948年までの間に、電力消費者は118%増加し、産業用産業用電力の消費は123%、電力供給能力は188%増加した。一方、1941年から49年までの投資額は3600万コロンに達した。

 これらの努力は、しかしながら、既存の需要総量を満たすには至らなかった。しかも、供給の伸びを上回る勢いで需要は増え続けていた。

 そこに、世界大恐慌の煽りを受けた。経済は麻痺し、コストは数百万コロン単位で膨れ上がる一方で、資産価値は目減りする一方だった。

 このどん詰まりの状況が打開されるのは、1948年から49年にかけての、ホセ・フィゲーレス・フェレール率いる統治評議会による一連の革命まで待たねばならなかった。

 1948年末、エンジニアの市民グループがコスタリカ・ナショナル銀行の取締役会において、国内の電化をトータルに達成するプランについてプレゼンを行った。その計画は、自治的な「主体」を、私企業とは別に創設し、国の電力開発を推進するというものだった。それが結晶化したものが、1949年のICE創立だった。

 ICE創設後に布告された政令によると、CNFLは既存(ICE創設前につくられた)発電所の操業は認められたものの、以後新たな電源開発を禁じられた。

 相変わらずCNFLは配電(distribution)分野においては第一位を占め続けたものの、単なる配電業者となった(現在は発電事業も行なっている)。一方で、そのふんだんな資本は新たな電源開発ではなく、既存の発送電設備の近代化と拡充に向けられることとなった。


 一方、傍流をみてみると、コスタリカバナナ会社(Compañía Bananera de Costa Rica)や、自治体・民間の発電所もできていた。たとえば、アラフエラ、エレディア、カルタゴなどに電気を供給していたCompañía Agrícola Santiago S.A.のCarrillos発電所などである。

CASは、この国におけるもうひとつの重要な民間発電会社である。Río Birrisを利用していた。1946年から同社は急成長し、発電容量は同年の100kWから1962年の3920kWにまで伸びた。

 また、コスタリカバナナ会社(Compañía Bananera de Costa Rica)も重要な発電アクターだった。バナナプランテーション地帯に、独立系統の発送電システムを所有していたからである。


 コスタリカには、石炭や石油などの地下資源がない。代わりに、豊富な水力資源がある。

 コスタリカの社会経済的発展は、「市民の文化レベル(の高さ)や収入の合理的な分配」に加えて、「水力資源に近いところに人口が集中したこと」もあると、コスタリカ大学による1967年の研究は結論づけている。

(出典:Estudio del sector energía; Universidad de Costa Rica, 1967 esp. pp.8−9)


ただし、同研究やその他のICEの資料が指摘するところによると、この時代を通じて、一次エネルギーとしては薪の割合が最も大きかった。電力は都市生活や産業、商業などで必要とされたが、田舎の日常生活においては植物性の燃料を直接燃焼させることの方がまだまだ多かったからだ。

 たとえば、1946年には、電力総供給量は95,201kWh、そのうち水力が88,296kWh、火力が6,905kWhだった。エネルギー総量が350万kWh強であったことを考えると、微々たるものであることは間違いない。もっとも大きかったのは薪で、225万kWhだ。(pp.10-11)

 それはまた、エネルギーの大半が「国産」だったということでもある。1946年におけるエネルギーの対外依存度は22.3%にすぎなかった。ここから、ICEの設立を通じて、コスタリカにおけるエネルギー、なかんずく電力事業は革命的変化を遂げる。1948年の革命は、軍隊放棄革命にとどまらず、電力革命でもあったのだ。それ以降の電力事情については、次回詳述したい。


注:本稿はまだ調査途中段階のものであり、最終稿は変更されます。


参考文献:

Estudió del Sector Energía (El Desarrollo Económico de Costa Rica), Publicaciones de la Universidad de Costa Rica, Serie Economía y Estadística No.23)

”The Rise and Fall of The American & Foreign Power Company: A Lesson from the Past?”, The Electricity Journal January/February 1997, William J Housman and John L. Neufeld

閲覧数:103回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page